Schatten Farbe









 その屋敷をぼんやりとエドワードは見つめた。
「……随分、でけぇ家に住んでるんだな」
「確かに大きいな。もっとも、住み始めたのはつい最近だよ。一週間も経過していない」
 答えながら、門を開いた。普通は数人の使用人がいて当然の規模の屋敷だが、現在一人も使用人は存在しない。今のところ不自由も感じていなかった。
「……あんた、まさかオレが来るから引っ越したのかよ」
 少しばかり呆れた風情でエドワードが言う。到着してしまうと、逆に逆に緊張が緩むのかも知れない。尋ねられた事項は事実だったから、あっさりと頷いた。
「以前の家は人間一人を拘束するにはあまり向かない上に、元々引っ越す予定があったからね。なにしろ公邸が今は余っていて選び放題だったよ」
 大量の高官が不在の今、その住居も当然余る。無論、行く宛のない家族が今も住んでいる屋敷もいくつかはあったが、大抵は高官の妻は良家の出身だから実家に戻れば事は済む。滅した高官達は人間を人間として認識していない輩ばかりで、国民にとって憎悪の対象にしかならない以上、屋敷にそのまま住み続けたい、と思う人間は少なかった。いつ何らかの報復を受けるかわからないのだから当然だろう。結果、豪奢な空き家が相当数セントラルシティに存在していた。 
 そうして、近々昇進が決まっているロイがその住居に住まうのは寧ろ当然と言えるだろう。誰も不審に思うはずがない。
 とにかく大量の物件があったから、自分にとって条件の合う屋敷も程なく見つかった。時間を見繕って探した甲斐はあったというものだ。
 引っ越し自体は面倒で骨が折れたが、これは仕方がない事だろう。とりあえず、近隣の住人にも好意的に受け入れられたようだ。『イシュヴァールの英雄』であり、先の混乱の中でもやはり英雄であった軍人に対して、畏怖と憧憬の念をますます強めたらしい。
 少なくとも、当面はこの屋敷を狙う強盗などは現れないだろう。もっとも、テロリストが狙う可能性はあるから気を抜くことはできないが。
「んじゃ、ここはどっかの将軍の家だったのか?」
 歩きながら、周囲をあまり見回すこともなくエドワードが尋ねる。その問いも、特に興味があったわけではないのだろう。どこか気もそぞろだった。
「そういう事になるかな。ただし、ここに住まっていたのは将軍の愛人だったらしいがね。それこそ、幽閉同然だったそうだよ」
「……あんた、趣味悪いな」
 エドワードの呟くような声音に、確かに、と頷いた。だが実際問題、将軍の愛人が住まう屋敷だったからこそ好条件だったのだから仕方ない。
 なにしろ場所も軍に近い上、家の造りも見かけだけではなく立派な代物だった。余程、先の将軍は愛人に寵愛を与えていたらしい。大事で大事で仕方なかったのだろう。全てが綿密に練られた作りの屋敷で、非常に奇襲もかけにくい。理想的と言って良かった。もっとも、将軍が死亡した後は愛人は晴れ晴れとした顔でこの屋敷を出て行ったと聞いた記憶があるから、手折られた花としてはどんな家であれ、牢獄に等しかったに違いないが。
「そこそこ広いから、君もあまり窮屈な気分にはならずに済むだろう。屋敷の中なら自由に動いて良い」
 そんなことを思いながら、気休め程度の言葉を紡ぐと、エドワードは意外そうな表情を浮かべた。一体どんな状況を思い描いていたのだろう。もっと陰気な狭い地下室にでも閉じ込められると思っていたのかもしれない。
「けど、夜は灯りとかついてちゃマズイだろ?」
「いいや。特に問題はないから君の好きにすると良い。この程度の屋敷ならば使用人がいて当然だ。夜に灯りがついたところで不可思議な事態ではないだろう?」
「……オレは使用人扱いかよ」
 少しだけ低い声音で告げられ、笑った。
「違うとも。君が使用人が必要と言うのなら、いくらでも口が硬くて、信頼できて、ある程度腕に自信のある人間を雇うがね。君が家事をする必要はどこにもない」
 そう。ただ、彼はこの場所にいれば良い。自分だけを待ち、自分だけのために存在してくれればそれで良かった。
「なら、オレはこの家で何してろってんだよ」
 門から屋敷までは相当な距離があったが、ようやく屋敷の目の前に到着した頃、小さくエドワードが問うた。目の前にそびえ立つ屋敷は何度見ても豪奢な作りだ。だが、先の住人と同じく、エドワードにとってここは少しばかり広い牢獄に過ぎない。
 鍵を取り出し、重い扉を開く。
「無論、私が望んだときに伽の相手を」
 そうして彼を牢獄へと招きながら微笑み、告げた。途端、エドワードは頬を朱に染める。いかにも初な反応を示した後、ゆっくりと歩を進めた。少しだけ、足が震えていたがロイは何も言わない。それでも自らの意志で歩こうとするエドワードは、どこまでも哀れで愚かで、そして愛しい存在だった。
「それ以外の時間は好きに過ごせば良い。錬金術の研究でも、怠惰に眠りを貪るだけの生活でも、君が望むままに。必要なものがあれば私に強請れば良い」
 鍵を閉め終えると、錬成陣を書いた。焔以外の錬成はあまり得意ではなかったが、それでも並の錬金術師よりは使える類だろう。とりあえず、施行した人間以外はこれでこの屋敷からは出られないはずだ。また、入ることもかなわない。
 錬成反応の光はひどく鮮やかだった。夜の闇に目が慣れていたから余計にそう思うかも知れない。小さくエドワードが息を吐いた。
 これで、彼はもう外へは出ることは許されない。外への道は絶たれた。
 無論、エドワードほどの錬金術師ならば、閉じ込めたところでいくらでも外に出る方法はあるだろう。これは形式でしかない。ただし、彼の性格上、一度交わした誓約を破ることなどできはしないだろうが。
「あんたに強請る、か」
 自嘲気味にエドワードは小さく笑った。
「君は私の慰み者になるのだから、私に強請るのが筋だろう?」
 ロイも笑う。彼にとって、それはひどく矜持を傷つける台詞に違いない。
 甘えることも強請ることも、彼はきっと知らない。幼い頃は知っていたに違いないというのに、今は忘却の彼方だ。彼は兄であり、甘える立場ではなかった。少なくとも、エドワードはそう信じている。
 基本的には器用な性質であるというのに、どこか不器用な子どもだった。もっとも、そのアンバランスさにも自分は惹き付けられているのかも知れない。
 その上、彼は本物の天才だった。自分の後押しがあったとはいえ、最年少で国家錬金術師となったのはやはり異例としか言いようがない。そうやって彼は今まで、甘えずに力強く生きていた。
 けれどこれからは違う。確かにエドワードはいつまでもアルフォンスの兄だ。それは生涯変わらない。
その事実は永遠に事実でしかない。その絆は他人に介入できるものではないだろう。
 だが、これからは彼は彼の力量で生きることは許されない。例えそれを、彼が望まないとしても。それでも、この道を選択したのは彼自身だ。
 例え他に道がなかったとしても、従来の彼ならば、他の道を無理矢理にでも造り出そうとしていただろう。けれど、今回はそれもなかった。
 最も、最愛の弟の生死を分かつかも知れない、などという非常事態では、そうそう冷静になれるものでもないだろう。石が足りない、という結論に落ち着いたなら、他の石を、と思うのも当然のことだった。石の持ち主を知っていれば尚更。
「……分かった」
 やがて紡がれた小さな声は、受諾のそれだった。さぞ苦い気持ちで告げたのだろう。
 彼は自分の囲われ者であり、慰み者になる。それはもう決定された現実だった。覆す気は毛頭なく、それはエドワードも十分承知している。
 だから彼はいつものようにロイに対して突っかかることもない。ただ、頷くばかりだ。月明かりで彼の影が長く映る。影までもが頼りなかった。
 今までは太陽の下で笑う姿が誰よりも相応しい存在だった。過去の凄惨さを忘れることなく、それでも彼は笑っていた。けれど、これからはどうなのだろうか。
 笑うことを忘れるだろうか。それとも、今までとは違う、愁いを帯びた笑みを浮かべるようになるのだろうか。
(まぁ、どちらでも構わないが) 
 そう、どちらでも構わない。どちらであっても、それはロイが彼に与えた表情だ。
 彼の大事な弟ではなく、自分の存在がエドワードに与えた表情。
 こんなにも、自分の闇は深かったのか、とロイは思う。今まで知らなかった。これもイシュヴァール戦の残影だろうか。それとも、自分元来のものなのか。こんなにも根深く、自分の闇は潜んでいた。その闇に、彼を引きずり混むのが嬉しくてならない。これで彼は自分のものだ。自分だけの。哀れだと思う自分も未だにいるが、心は歓喜に溺れている。彼が手に入る。
 それ以上の幸福を、今は見いだせそうになかった。
 月明かりの下、エドワードの影が長く伸びている。その影の色は、自分の闇とやがて同じ色になるだろう。
 自分が彼を染め上げる。暗い、漆黒の闇色の世界へ誘う。そして誰にも渡さない。彼は自分のものだ。自分だけの。その事実が、こんなにも歓喜をもたらす。歪んでいる自覚はあるのに、どうにもならない。
 あるのはただ、暗い歓喜だけだ。
「先ほども言ったとおり、屋敷内は自由に歩いて良い」
「あそこは?」
 言って、エドワードは窓から見える中庭を示した。
「私がいるときならば構わないが、一人の時は駄目だ。窓も開かない。出たいときは私に強請ると良い」
 本来ならば中庭くらいは構わないと言ってやりたいところだが、屋敷内よりも狙撃される可能性が高い。自分に恨みを持つ人間など珍しくない以上、ないとは言い切れなかった。
 もっとも、基本的に中庭も狙撃しにくい作りであることはリザが認めている。だからこそ、彼女もこの屋敷を奨めてきた。ロイがどんな目的でこの屋敷を選んだのか彼女は知らないが、知ったところで意見は変えなかっただろう。この屋敷は存在そのものが砦だった。
「……随分、寛大なんだな」
「いいや、狭小だよ。だから君はここにいるんだろう?」
自分が寛大ならば、彼は今頃弟と笑い合っていたはずだ。
 どこまでも、どこまでも幸福に。そして、いつか彼の故郷へ二人で帰って行っただろう。そこで平和に、穏やかに暮らす。そんな未来がエドワードには存在していたはずだった。そしてその未来に、自分の姿は存在しない。彼の幸福に、自分は必要ない。だが、そんな未来を自分は受け入れることができなかった。
「けど、それはオレが選んだことだ」
 目を伏せ、エドワードはきっぱりと言った。未練などないと、そうロイに示すように。
「そうだな。私が望み、君が選んだ」
 それがどんな理由だろうと、経緯だろうと構わない。
 そして彼はこの場所に捕らわれる。ロイが望む限り。ずっと。
「部屋はいくつあるんだ?」
「残念ながら把握してないな。興味があるなら自分で数えると良い。時間はいくらでもある」
「……さっき、研究しても良い、って言ったよな」
 彼らしくもなく遠慮気味におずおずとエドワードが言い、そうだな、と頷く。
「言ったな」
「どの部屋を使って良いんだ?」
「どこでも。ここは私の屋敷だが、今日からは君の屋敷だ。家具も拘りがあるなら言えば良い。君の好みのものをそろえよう」
 屋敷には一通り家具がそろっているが、これは前住人が残していったものも含まれていた。おそらく資産価値もそれなりだろう。もっとも、特に興味があるわけでもなかったから、部屋も余っているし、捨てるのも面倒だった、と言うだけの話だ。更に言うなら、以前の自宅から持ち出した家具もそう多くなかった。だが、これからは彼が望むのなら多少凝っても良いだろう。そう思ったが、エドワードの返答は実にそっけなかった。
「別にねぇよ。あったら旅なんてできねぇだろ。使えるならそれで良いっての。無駄に家具増やしたって意味ねぇだろ」
「なるほど」
 特にロイとしても、どうしても家具が増やしたいわけでも、凝りたいわけでもない。ならば当面はこのままで良いだろう。
「そういえば鋼の。夕食はどうした?」
「食ってねぇ。ついでに言うと、今も食欲なんかねぇ。だから何も必要ない」
 大分緊張の色は失せていると思っていたが、その台詞でそうでもなかったらしいことを知る。まだ子どもと言える年齢を考えれば無理もなかった。もっとも、彼自身は子ども扱いを嫌うが。
「では何か飲むくらいはした方が良いな。キッチンに案内しよう」
 言って、キッチンを含め、とりあえず知っていた方が良い場所だけを先に案内した。無論、そこにはベッドルームやシャワールームも含まれている。
 それらの部屋を見る度に、エドワードは少しばかり気まずそうな表情を浮かべる。これからのことを思えば、それは当然の反応かもしれなかった。
 一通り案内し終えると、再び彼をベッドルームへと連れて行く。彼は黙ってロイの後ろを歩いていたが、少しだけ速度が遅くなった。
 ベッドルームは広い。無論、ベッドも広かった。だが、直視できないのか再びエドワードは俯いている。
「……えと、し、シャワー、……浴びてぇんだけど」
 やがて俯いたまま告げた台詞に微笑みを浮かべた。
「シャワーなら、私に会う前に浴びただろう?」
「なんで知ってんだよっ?」
 ひどく驚いた様子でエドワードが尋ねる。本気で不思議がっている様子だ。
「微かに髪が濡れていたからね。そして今日は雨など降っていない。なら、答えは自ずと出てくるだろう?」
 おそらく少しでも時間を先延ばしにしたくて言った台詞に違いない。だが、もう待つ気もなかった。
「そんなに怯える必要はないよ。私は優しいから安心すると良い」
「別に怯えてるわけじゃねぇよ。ねぇけど、そのっ、……ちょっと、……さ、寒かったから、シャワー浴びたかっただけだっ」
 その台詞を聞いて、微笑みを浮かべたままロイは口を開いた。寒いというのなら、それは寧ろ好都合だ。
「なら、私が暖めてやろう」

 今更逃げ道を用意してやるつもりも、無論なかった。